大原麗子の死因に迫る|ギラン・バレー症候群と主治医が明かす最期
大原 麗子 死因についての関心は、彼女がこの世を去ってから歳月が流れた現在もなお絶えることがない。かつて「すこし愛して、なが〜く愛して」のフレーズで日本中の心を魅了した昭和の大女優・大原麗子。2009年8月に東京都世田谷区の自宅で息を引き取っているのが発見されたニュースは、芸能界と日本中の視聴者に計り知れない衝撃を与えた。あまりにも美しく、あまりにも儚いその晩年。彼女を追い詰めた病魔と、静かな孤立死の真相はいったい何だったのだろうか。
日本映画界のトップスターとして君臨した彼女の光と影を振り返る際、多くの人が大原 麗子 死因の背景にあった長年の闘病生活と心の葛藤に目を向ける。主治医による証言や当時の取材記録を紐解くと、そこには華やかなスクリーン上の姿とは対極にある、神経疾患との孤独な闘いと、人間らしい苦悩に満ちた真実が浮かび上がってくる。
ギラン・バレー症候群闘病の末に起きた孤立死の真相と主治医の証言

大原麗子さんの直接的な死因は「脳内出血」と診断されている。しかし、その死を単純な病死として片付けることはできない。彼女の体を長年にわたって蝕み、心身ともに追い詰めていった根本的な原因こそが、難病「ギラン・バレー症候群」だった。
ギラン・バレー症候群とは、免疫システムの異常によって末梢神経が障害を受け、全身の筋肉に麻痺が広がる指定難病である。彼女が最初にこの病を発症したのは1975年のこと。重症化すれば呼吸困難に陥ることもある危険な病に対し、彼女は懸命な治療とリハビリで復帰を果たした。しかし、一度は克服したかに見えた病魔は、1990年代後半に入ると再び彼女の肉体を痛めつけ始める。
主治医や近親者の証言によれば、晩年の大原さんは手足の激しい痺れや筋力低下に悩まされ、階段を上ることすら困難な状態に陥っていたという。主治医は「女優としてのプライドが非常に高く、衰えた姿を世間や知り合いに見せることを極端に嫌がっていた」と語る。かつての大女優という看板を守るため、彼女は自ら周囲との連絡を断ち、自宅に閉じこもる時間が増えていった。
死亡が確認された2009年8月6日、自宅で倒れていた彼女は推定で死後3日以上が経過していた。手足の麻痺による転倒、そして急激な血圧の変化が引き起こした脳内出血。ギラン・バレー症候群がもたらした身体機能の低下と、誰にも助けを求められなかった精神的孤立が重なり合った結果の孤立死だった。
東映の新人から昭和を代表する大女優へ駆け上がった足跡

昭和を彩るスターとしてのキャリアは、あまりにも華やかだった。六本木でスカウトされた大原麗子さんは、1964年にNHKのドラマでデビューを果たすと、翌年には映画会社「東映」へ入社する。
当時の東映は任侠映画の全盛期。彼女は可憐で清純な魅力を放つ新人女優として注目を集め、瞬く間に数々の作品に引っ張りだことなった。男社会の映画現場において、芯の強い立ち振る舞いと独特の愛くるしいハスキーボイスは異彩を放っていた。日本映画界が活気に満ちあふれていた時代、彼女は映画ファンを魅了し続け、誰もが認めるスターへと上り詰めていったのである。
『男はつらいよ』マドンナと『居酒屋兆治』で見せた名演の記憶

大原麗子さんの女優としての評価を決定づけたのは、数々の名作映画での好演だった。とりわけ国民的映画シリーズ『男はつらいよ』において、彼女は歴代マドンナの中でも屈指の人気を誇った。第22作『噂の寅次郎』(1978年)と第34作『寅次郎真実一路』(1984年)の2度にわたりマドンナ役を務め、渥美清さん演じる車寅次郎との切なくも温かいやり取りは、今なお多くの映画ファンの記憶に刻まれている。
また、1983年に公開された高倉健さん主演の映画『居酒屋兆治』では、主人公への想いを胸に秘めた薄幸の女性・神谷さよ役を熱演。言葉少なげな表情の裏に秘めた情念と悲哀を圧倒的なリアリティで表現し、日本映画史に残る名演技として高く評価された。可憐さと狂気が背中合わせになったような独自の存在感は、他の女優の追随を許さないものだった。
『NHK大河ドラマ 徳川家康』と時代劇で放った圧倒的存在感
映画界だけでなく、テレビドラマの分野でも彼女はトップ女優としての地位を盤石なものにした。中でも「NHK」が誇る大型番組枠である大河ドラマでの活躍は目覚ましかった。
1983年放送の『NHK大河ドラマ 徳川家康』では、徳川家康の正室である築山殿役を繊細かつ力強く演じきった。気品にあふれた佇まいと凛とした演技は、歴史ファンの間でも絶賛された。また、1989年の大河ドラマ『春日局』ではタイトルロールであるヒロイン・春日局(お福)を演じ、高視聴率を記録。凛とした気品と芯の強さを求められる本格的な時代劇において、彼女の存在は欠かすことのできないものとなっていた。
サントリーCMの「少し愛して、なが〜く愛して」と渡瀬恒彦との絆
大原麗子さんを茶の間のスターとして決定づけたのは、サントリーのウイスキーCMだった。「すこし愛して、なが〜く愛して」という甘く可愛らしいセリフは、日本中の流行語となり、お茶たたみの国民的イメージとして定着した。
一方で、彼女の私生活には常に熱い視線が注がれていた。1973年、映画の共演で出会った俳優の渡瀬恒彦さんと結婚。映画界のおしどり夫婦として知られたが、1978年に離婚。しかし、二人の関係は離婚後も決して険悪なものではなかった。渡瀬恒彦さんは彼女が病魔に苦しんでいた時期も陰ながら心配し続け、彼女の訃報を聞いた際には深い哀悼の意を表している。互いに尊敬し合い、言葉では言い表せない深い絆で結ばれた二人の関係は、昭和の芸能史における切ない記憶として語り継がれている。
Amazon Prime Video等で再評価される日本映画界の宝
亡くなってから長い年月が経った現在、配信サービスの普及によって大原麗子さんの過去の主演作が再びスポットライトを浴びている。Amazon Prime Videoをはじめとする動画配信プラットフォームでは、『男はつらいよ』シリーズや『居酒屋兆治』、さらには伝説のテレビドラマ作品がデジタルリマスター版などで手軽に鑑賞できるようになった。
昭和という激動の時代に咲いた一輪の華。病魔との壮絶な闘いと孤独な最期を迎えた彼女だが、スクリーンの中に遺された美しく気品あふれる姿は、決して色褪せることはない。日本映画界が誇る名女優・大原麗子の残した足跡は、新しい世代の映画ファンの心にも、静かに、そして息長く刻まれ続けている。 (出典: 大原 麗子 死因(Yahoo!ニュース))